葬送儀礼所感その9

人は死んだらどうなるのか?

この問いを真剣に考え深めた場合、生きるとはどういうことか?私は何者か?を突き詰めなくてはならない。それはどういうことかというと、死んだらどうなるか、という問いは、死んでもなお存在するための〝魂〟はあるのかどうかを理詰めで解答しなくてはならないからだ。

魂は、身体の中に内包されたものであれば、身体が滅すると同時に魂も滅すると考えるべきだろう。故に死後も存在する魂は身体と別に非物質的であらなければならない。それは一体どのようなものなのだろうか。

私の意識は魂として身体の外で存在することができるのだろうか…

一つ言えることは、魂は有ると結論づけるには相当に困難である。しかし魂は無いと、目の前の事象にのみ真実が見出せない程度の思考で納得しているようでは、いずれ訪れるであろう死の恐怖にもがき苦しむことになる。

したがって〝私の魂〟については死の間際まで問い続けなければならないのだ。

葬送儀礼所感その8

幸せを突き詰めると人生は〝苦〟に行き着きます。
なぜなら、どんなにしあわせな人生であっても〝死〟で終わるとなると、それは極めて恐ろしく苦しい道のりです。
どのような宗教も〝死〟という〝苦〟の存在が根本にあり、その苦に対して、私たちがどのように考えるのかを問うのが宗教です。

「人はなぜ死ぬのか…」

それは、生きるという苦から解き放たれるためであると考えます。
そして、葬送儀礼において重要なことは、阿弥陀如来の本願の中に、あらゆる時代の人々が等しく摂め取られていることが明らかにされていることを故人とともに聴くことにあります。

葬送儀礼所感その7

当麻寺所蔵「当麻曼荼羅」

浄土三部経の一つ「仏説観無量寿経」の諸説を描いたとされる当麻曼荼羅は、中央に阿弥陀仏が鎮座し、左側はお経の序章〝王舎城の悲劇〟を表現し、右側は、極楽浄土に往生を遂げる十三観想法、下縁には九品往生が図示されています。
老病死の恐怖を極楽の存在を信じることで、救われようとした昔の人々。
今の時代に、極楽浄土が本当にあると信じ切ることができる人は少ないといえますが、昔も今も死の恐怖を克服する術はありません。

葬送儀礼所感その6

「人の命は地球より重い」
この有名な言葉は、ハイジャック事件の人質開放にあたり、当時の首相福田赳夫氏が呟かれたと伝わっています。
しかし、そもそも人の命に重みはあるのでしょうか。
人の命は地球より重い、と聞くとどこか聞きごごちが良くありがたく感じますが、命というのは、人だけではなくこの世に存在する全てに命があり、その命は遥か昔から網の目のように繋がっており、また未来に向けても命は繋がっているのです。

命というのは、私一人のものではありません。

命は永遠であり無限であります。

死というのは、永遠の命に戻ることです。

決して恐ろしいことではありません。

葬送儀礼所感その5

南無阿弥陀仏をとなえれば 
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
喜びまもりたもうなり…和讃

阿弥陀とは、“計り知れない永遠の”と捉えて仏は“命”と見ます。
阿弥陀さまとは、これつまり“永遠の命”と解釈します。
永遠の命とは、命のつながりのことで、私たちの命は遥か昔から脈々と繋がってきた命であります。
地球が誕生し海ができ、微生物が生まれてから現在に至るまで、生きとし生けるもの全ての命は果たしてどれくらいあったでしょうか。
決して数えることはできない無数の命、この総称が“阿弥陀仏”と私は考えています。

葬送儀礼所感その4

人間は死後、生まれ変わることができるのでしょうか。
大切な人を亡くした遺族の心情から察すると、亡くなった人はもう一度この世に生まれ変わってきて欲しいと願うものです。
例えば、故人のことに想い忍んでいると、窓際に雀が飛んできて、怖がりもせずじっとしてる様子などを見たとき「これは故人の生まれ変わりかもしれない」と感じるものです。
生まれ変わりが有るのか無いのかを知性で理解しようとしても、答えは出ません。
それよりも、亡くなった方の存在を身近に感じれるよう自身の感受性を高めていくことが、供養のひとついえるのではないでしょうか。

葬送儀礼所感その3

古代日本人より抱き続けている、この世界とは別の世界が存在するという「他界観念」。
それを〝天〟と呼び、また、〝極楽〟とも呼んで、いずれも人の死を界に到達すると信じられている。
宗教学では、この世と連続の認められる他界を「連続的他界観念」とし、この世とは連続せず、全く別次元で存在すると考えられる「断絶的他界観念」と、二つの観念が位置付けられれている。
仏教でもっとも語られる他界は、一切の苦悩から解き放たれ極めて安らかな場所「極楽浄土」である。

葬送儀礼所感その2

葬送儀礼において、お経を唱えるというのは供養の一つといえます。

お経とは、お釈迦さまが語られた言葉を後々物語調に記したもので、その数は八万四千ともいわれています。

浄土真宗では、「浄土三部経」が根本聖典として、お釈迦さまの「出世本懐」の教えを聞かせていただくのが、お経を唱えることの意味です。

さらには、お釈迦さまの本意を明らかにされた七高僧や親鸞聖人ご教導の「偈文」をお経とともに唱え、その意味は、阿弥陀仏が願われた『あらゆる時代の全ての人々、命ある全ての生きものが等しく御救い導かれる』ことを聞かせていただき得心することが、お経を拝読することの重要な意味であります。

葬送儀礼所感その1

死とはどのようなことをいうのだろうか。
もちろん、生命学、医学、倫理的に、
さらには法律によって死は定義されていることは承知している。
もし、身体が生命体の全てだとしたら、身体の機能が停止した段階、そして、例えば火葬された時点で、私たちが通常考える死が訪れたといえる。

それでは、心や思考や体験はどうなるのか。

一人の生命体がこの世に生まれた事実は、死が訪れても急に消え去ったりしない。つまり死というのは、私たち身近な者の前に五感に感じる範囲で居なくなることに過ぎない。大局で死を捉え、死に対する問いを深め、死を受容していく過程が宗教である。