協和マリナホスピタル遺族会

西宮の協和マリナホスピタルで行われました〝遺族会〟で講演をさせていただいた際の内容の文字起こしです。

本日は、協和マリナホスピタル主催の遺族会に

お忙しい中、お越しいただきましたことを

心より感謝を申し上げます

ありがとう御座います

私は、吉田敬一と申します

私は、協和マリナホスピタルさん8階

緩和ケア病棟にて

毎週月曜日、傾聴ボランティアとして

活動させていただいています

傾聴ボランティアというのは

患者様方のお話を

お聴きすることに重点を置いた

ボランティア活動のことです

お話をお聞きする以外にも

お掃除やお食事のお手伝い

散歩をご一緒したり、買い物へご一緒したり

また、季節行事のお手伝いなど

私でもお役に立てそうなことであれば

どのようなことでも

お手伝いをさせていただいております

私の本分は僧侶です

しかし、病棟内の活動では

そのことを前面に出すことはありません

私の方から宗教的な話題を持ち出したり

教義的なお話は一切致しません

終末期医療の現場に僧侶がいるということは

非常にデリケートなことであります

したがって私は、僧侶という立場よりか

、、、世話好きな、、近所の人、、、

という立場を常に意識しています

こちらでの活動に至る以前は

高齢者施設へ週一回一年ほど通いました

そして、、

「聞き屋」、、、と書いた看板を首からぶら下げて

駅前に立ったこともあります

さらに、東北大震災があった直後から

宮城県の石巻や南三陸町でも活動をしてきました

では

なぜ、そんなに無我夢中で活動したかと言うと

実は、私は

小学一年生の娘を亡くしているんですね

娘は、生まれながらにして

重い障害をもっていました。

やっとの思いで小学校に入学させて

二年生に進級する春休みに

カテーテルでの軽微な手術を受けました

けれど、そのことに端を発した重篤な肺炎で

あっという間に逝ってしまったんですね

そのことがあって後

自分の悲しみを埋めるようにして

このような活動を行ってきたんですね

ですから、今日こうして皆様と

ご一緒しているのは

僧侶でもなく、又、ボランティアでもなく

大切な家族を亡くした、、、、遺族の一人として

参加させて頂いているつもりです

では、、これより、、、遺族としての私の体験談を

少し、、お話しさせていただこうと思います

娘の名前は吉田姉真(しま)と言います

平成22年3月19日、享年9歳で、旅立ちました

まずは、その時、その瞬間のことを

後日、メモにしたものがありますので、、、、、

朗読したいと思います

【そのとき】

・CICUに呼ばれた

・呼吸器が、付けられている

・心臓マッサージ

・体の下に、ざらざらした板が、しかれた

・透明の薬が、大量に入れられていく

・10分経過 11分経過とカウントする看護師の声

・むずかしいかもしれないと、先生の声

・先生の手を止める自分

・楽に逝かしてやりたいととっさに思う自分

・なんであきらめるのと、妻のことば

・先生がしまの脈を取った

・臨終のことば

・先生の話

・つながれていた管が全部取られている

・お風呂に入れてあげる

・髪の毛を洗ったとき、涙出る

・髪の毛ドライヤーとくしでとかす

・おしりに薬塗る

・布パンツはかせる

・お気に入りのパジャマを着せる

・エンゼルメーク

この後、たくさんの看護師さん

先生に見送られながら

自分たちの車で帰宅しました

私が運転して、、、家内がだっこしながら家路につきました

そして、、、、お葬式を務めて、

お骨ひろいの時です

娘の骨が、くずれて、拾えないんです

灰になって、拾えないんです

骨が、とても細かったんですね

その細い足で、、、がんばって歩いてたのか、と思うと

胸をかきむしられるような

苦しさが出てくるんですね

そして、、、お骨といっしょに

コイルが、、いくつも、ころがっていたんです

カテーテルで、血管に入れたコイルが

焼けずに残ってた

ほんとに、、、頭が真っ白になりました

今まで何度と無くカテーテルで、、、

コイルを入れてきて、、

治療して、少しでも、良くなれば

と思ってやってきたんですが

それが逆に

娘の体に、負担を、かけてたのではないかと

親としての選択が、、

間違ってたのではないかと、、、

後悔が押し寄せてきたんです、、、

娘〝しま〟が亡くなって、数日が経ってくると

私も、家内も、日に日に

苦しくなっていくんですね

いろいろ考え出すと、体にくるですね

朝起きるのが途方もなく辛いんです

寝汗で体がべっとりしていて

固まってしまうんですね

車の運転中にも

ハンドルが汗だらけになってきて

だんだんと動悸が激しくなり

高速道路の路肩で

一時間程、じっとしてた事もありました

そして、家内が

みるみる憔悴していくんです

家内自身は

普通にしている、つもりなんですけど

娘を、追っかけはしないか

という恐ろしさが、、、そういった雰囲気が、出ていました

家内は、娘の最期数日間

付き添っていたのに

何もしてやれなかったことを

心底、、悔いていたんですね

このころ、、家内も私も

泣くことすら、、できないような状態でしたが

一度、、涙が出たら

大泣きになるんですね

家内が、台所で料理しているかと思えば

突如、大声で泣きだすこともありました

このような状態、、気持ちを、、

悲しいとか、辛いとか、よりも

表現の仕方では、苦しい、、、になるんですね

苦しい状態には、波があります

きっかけがあれば、

一気に苦しくなるんですね

一旦波がくると、体が固くなってしまう

動けないから、じっと耐えるんです

とにかく耐えるんですね

この苦しい波は、今でもあります

4年過ぎてもあります

ある時、私は、人から

「お子さん何人いらっしゃるんですか?」

と聞かれて

「1人です」、、、と無意識に答えました

その瞬間、、、、、我に返って、、、

強烈な自己嫌悪とともに

走ってる車に飛び込もうという

衝動が起こりました

自分をまったくコントロールできなくなったんですね

子供は、長女しまと次女の二人なんです

「2人」て言えなかった

無意識の内にマイナス1、、としてしまった

しまに申し訳ない、、、、

今すぐそっち行くからな、、、

瞬間的でしたが、真剣に、、そう感じました

今思い返しても

あの時は非常に危なかったと思います

それでも、一方では

その苦しみを癒してくれることもあります

写真なんですね、、、

楽しかった時の写真を見ると、、少し安らぎます

生き生きと、している娘しまを、、、感じるんですね

写真は思い出なんですね

思い出が、苦しさを、和らげてくれます

それから、、、、、小学校と、担任の先生にも、、

いろいろと助けていただきました

特に家内は

この先生の存在が支えになっていました

娘しまが亡くなってからも

よく家に来て下さったんですね

しまが、学校で愛用していたものが出てくると

わざわざ持ってきてくださるんです

なにげない文具一つでも

親にとっては宝ですから

先生が来るとなると、、、家内は元気になるんです

それから、娘しまのお友達も、、大きな支えでした

これは今もそうです

しまが生きていたら小学6年生ですが

しまの同級生達を見かけたら

微笑ましく思います

家内も、しまのお友達が

お花を持ってきてくれたりするのが

とてもうれしそうでした

そしてこの、花にも、、、だいぶ助けられました

部屋に、たくさん追悼の花があるというのは

理屈抜きに落ち着きます

お供えの花を買いに行くこと

飾ること、供えること、眺めること

水を替えたり世話すること

これらすべてが落ち着くんですね

後、私たちを助けた、意外なものとして

娘しまの在宅酸素の機械

酸素の機械は

しばらくずっとつけていました

機械の音が鳴っていると

しまがいてるようで、、落ち着くんですね

そうしてですね、次女が、、小学校に入学しました

その次女の入学式の日に

学校のはからいで

しまが一年間、、、学校で座っていた椅子を

その椅子を私たちにくださったんですね

大事に倉庫に保管してくれていたんですね

これには、次女の入学の嬉しさと重なって、、、

大変感動しました

家内は、この出来事が、、

大きな転機になったように思います

娘が亡くなって、、、半年ほど過ぎた頃

家内が、ボランティア講習を受講しました

社会福祉協議会のボランティアセンターには

以前からお世話になっていて

お誘い頂いたんですね

講習の初日に、行くまでは

気乗りしなかったようですが

そのうち、そこでは、

障害者さんの作業所での、、実習もあって

大変よかったと言うんですね

それならと言って、、私も行ってみました

家内も私も、、お礼をしなくてはならぬ

という気持ちが出始めるんですね

実は、、娘しまには、、小学校生活に寄り添って下さった

ボランティアの看護師さんがいました

娘のような重度の障害児は

普通の小学校に通うのは大変なんです

それは、学校内でも医療的な行為が伴うからで

小学校の先生では

それをしてあげれないんですね

親がずっと付き添うか

自分たちで看護師さんを雇うか、、、

どちらかです

ところが、私たちの場合、、奇跡的にも

ボランティアで、、娘に寄り添って下さる看護師さんが

見つかりました

この方との出会いがあったからこそ

娘しまは、小学校に通うことができたんです

一年間でも、小学校で輝いた時間を過ごせたんです

私たちは、、この方への感謝の気持ちは、、

今でも強く持っています

現在、、私がこのような活動に取り組んでいるのも

娘を支えて頂いたことへの、、、、お礼なんです

娘は、生前、、多くの方々に支えて頂きました

亡き後も、私たちには

多くの方々の支えがありました

とにかく苦しい毎日があって

苦悩と喪失感に潰されそうでしたが

それでも、多くの方々に私たちは助けていただいた

ですから、その、多くの方々に

感謝の気持ちを、、、伝えたい

どうすればいいのか、、

なにをすべきなのか、、

それを考えて実行していく

それが、父親としての私の役目だと

すこしづつ、、、考えるようになり

傾聴ボランティアが始まったんですね

娘が亡くなってちょうど一年をむかえようとしている時

東北地方であの大地震が起こったんですね

そして、宮城県石巻の大川小学校での出来事を

ニュースで知ったんです

津波で小学生が何人も亡くなられた

このニュースにふれて、がっくりくるんです

人ごととは思えないんですね

震災から一年を経た後

ようやく、、大川小学校の慰霊に行きました

行脚供養をしに、、訪ねました

その日は、大雨でしたが、、北上川の川沿いを

お経を唱えながら歩いていたんです

それは真剣に歩きました

時に、娘のことを思いながら歩いていると

だんだんと涙が出てくるんです

そしてそのうち、、、、だんだんと、、

娘しまの面影が、、、はっきりしてくるんです

しまの面影が、歩きながら強まっていくんですね

そして、、

しまの存在を、、たしかに感じるようになるんですね

そう感じながら、、、慰霊碑の前まで来て

他の宗教者と一緒に祈りました

すると

体は、寒くて震えてるんですよ、ガタガタと

でも、心は、非常に落ち着いているんです

そして

体の底から湧き上がってくるような

言葉にならない、今までに感じたことのない

大きな大きな、、感謝の気持ちが、、表出してきたんです

決して霊感の話をしているわけではありません

娘の霊を見た、、ではなく

亡くなっても、、、ちゃんと繋がっている、、、、

その実感と、、喜びを得た、、、

そう言った、、、お話なんですね

この不思議体験は

私にとって、非常に大きな転機でした

娘しまが亡くなって、二年半経っていましたが

後から振り返って

一つのトンネルを抜けたかな、、、

と思える出来事なんですね

その後も出来るだけ東北地方に通いました

そして、仲間の宗教者たちと

石巻の仮設住宅へ訪問するようになりました

訪問して、ただお話をお聞きする

決して、宗教的な話で

被災された方達を、教化したりはしない

安易な慰めや、励しもしません

自分の悲しい体験談も、語りません

これらをルールにして

ただ、お話をお聞きすることに徹する

大変な思いされた方の、、話を聞いて

想像を絶する話を、、聞くんですね

相手の方も、見ず知らずの私に、、話をして

私は一生懸命聞くだけ

でも全身で聞くんです

お坊さんである私、そして遺族である私

両方の私が全身で聞く

すると、だんだんと

お互いに、繋がってくる感覚、理解しあえる感覚

のようなものが出てくる

私も、その方も、その感覚がわかるんですね

話して、よかったという気持ちと

聞いて、よかったという気持ちが共有できるんです

私は、、この実感を通して

お話を、お聞きする、、ということに対して

ものすごく腑に落ちたんです

結局、遺族も、被災した方も

また終末期の患者様も、認知症の高齢者も

自らの思いを話すことができれば

やはり、、、楽になるんです

でも、どう話すか、、、、

自らの苦しい思いを語るというのは

実はとても大変な行為なんです

さあ、話してくださいと言われても

なかなか話せるもんじゃありません

それでも、きっかけがあれば、話す、、、

少しづつでも話す

そうすると

とても楽になると、、思うんです

胸のつかえが取れるというように、、

そして、聞いている人も、

じつは、ある種の喜びというか、

感謝のような感覚が得れる

むしろ、聞く人の方が得るものが多い

私は、この活動を通して

「聞き助け」、、、という言葉を学びました

この言葉の意味は

語る人だけでなく、

聞く人も助けられる

語るも人も、、、聞くも人も、、、、

同じ、助ける、、助け合う、、という行為なんですね

人の悲しみは、それぞれ全く違うと言えます

同じ悲しみというのはありません

でも、違うからこそ補えあえるんですね

私たち夫婦の場合、一番うれしくて楽しい時間は

娘しまの生前の思い出話をしているときです

やはり、家族や友人同士で

故人の思い出を話したり聞いたりすること

この何気のないことが、、

私たちを救ってくれるように思います

今日は、遺族会です

この後は、皆さん同士、またスタッフさんと、

時間の許す限り、聞き助けができて、、、

穏やかな時間になればいいなと思います

最後に、現代歌人の小島ゆかりさん、、の歌を詠んで、

私のお話を終えたいと思います

「渡らねば 明日へは行けぬ 暗緑の この河深き 悲しみの河」

本日は、本当にありがとうございました