死について想う

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当麻曼荼羅

浄土三部経の一つ「仏説観無量寿経」の諸説を描いたとされる当麻曼荼羅は、中央に阿弥陀仏が鎮座しています。そして、左側はお経の序章〝王舎城の悲劇〟を表現し、右側は、極楽浄土に往生を遂げる十三観想法、下縁には九品往生が図示されています。


老病死の恐怖を、極楽の存在を信じることで救われようとした昔の人々。


今の時代に、極楽浄土が本当にあると信じ切ることができる人は少ないといえますが、昔も今も死の恐怖を克服するたしかな術はありません。

当麻曼荼羅

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永遠の命

南無阿弥陀仏をとなえれば 
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
喜びまもりたもうなり…現生利益和讃


阿弥陀とは、“計り知れない永遠の”と捉えて、仏は、“命”と見ます。
阿弥陀さまとは、これつまり“永遠の命”と解釈します。
永遠の命とは、命のつながりのことで、私たちの命は遥か昔から脈々と繋がってきた命であります。
地球が誕生し、海ができ、微生物が生まれてから現在に至るまで、生きとし生けるもの全ての命は果たしてどれくらい存在したのでしょうか。
決して数えることはできない無数の命、この総称が、“阿弥陀仏”と私は考えています。

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生まれ変わり

人間は死後、生まれ変わることができるのでしょうか。
大切な人を亡くした遺族の心情から察すると、亡くなった人はもう一度この世に生まれ変わってきて欲しいと願うものです。
例えば、故人のことに想い忍んでいると、窓際に雀が飛んできて、怖がりもせずじっとしてる様子などを見たとき「これは故人の生まれ変わりかもしれない」と感じるものです。
生まれ変わりが有るのか無いのかを知性で理解しようとしても、答えは出ません。
それよりも、亡くなった方の存在を身近に感じれるよう自身の感受性を高めていくことが、供養のひとついえるのではないでしょうか。

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極楽浄土

私たちが抱き続けている、この世界とは別の世界が存在するという「他界観念」。
それを〝天〟と呼び、また、〝極楽〟とも呼んで、いずれも人の死を界に到達すると信じられている。
宗教学では、この世と連続の認められる他界を「連続的他界観念」とし、この世とは連続せず、全く別次元で存在すると考えられる「断絶的他界観念」と、二つの観念が位置付けられれている。
仏教でもっとも語られる他界は、一切の苦悩から解き放たれ極めて安らかな場所「極楽浄土」である。

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お経を唱えるということ

葬送儀礼において、お経を唱えるというのは供養の一つといえます。

お経とは、お釈迦さまが語られた言葉を後々物語調に記したもので、その数は八万四千ともいわれています。

浄土真宗では「浄土三部経」が根本聖典として、お釈迦さまの「出世本懐」の教えを聞かせていただくのがお経を唱えることの意味です。

さらには、お釈迦さまの本意を明らかにされた七高僧や親鸞聖人ご教導の「偈文」をお経とともに唱え、その意味は、阿弥陀仏が願われた『あらゆる時代の全ての人々、命ある全ての生きものが等しく御救い導かれる』ことを聞かせていただき得心することが、お経を拝読することの重要な意味であります。

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死の受容

死とはどのようなことをいうのだろうか。
もちろん、生命学、医学、倫理的に、さらには法律によって死が定義されていることは承知している。
身体が生命体の全てだとして、身体の機能が停止した時点、そして、火葬された時点で私たちが通常考える死が訪れたといえる。

それでは、心や思考や体験はどうなるのか。

一人の生命体がこの世に生まれた事実は、死が訪れても急に消え去ったりしない。
つまり死というのは、身近な者の五感の範囲で居なくなることに過ぎない。
大局で死を捉え、死に対する問いを深め、死を受容していく過程が宗教である。