しまちゃんへ
パパはとうとう50歳になったよ!
しまちゃんの元に旅立つ日はいつかな?
まだまだかかりそうだけど、
その日を楽しみにしています。
楽しくなる仏教ブログ 〜らくぶつえ〜
しまちゃんへ
パパはとうとう50歳になったよ!
しまちゃんの元に旅立つ日はいつかな?
まだまだかかりそうだけど、
その日を楽しみにしています。
私こと吉田敬一は、ついに50歳になり申した。
これからの時代は〝人生100年〟と言われはじめたが、それからすると、私の人生は今でようやく半分である。
ここからの人生は、じっくりと構えて、それでいて型にはまらず自由自在に楽しむつもりだ。
さて人生をおもいきり楽しむためには、何がもっとも大切なのだろうか…
家族…お金…仕事…時間…どれをとっても大切だ。しかしこれらのすべてを、人が羨むほど手にしていたとしても、それを感謝できる心を持ち合わせているかどうかが、人生を大いに楽しめるか否かとなるであろう。
今日からは、何かにつけ口を開けば「ありがとう」と言いまくろうではないか。
暑い!
とにかく暑うございます!
「天地と我と同根、万物と我と一体なり」
これは、中国の古い教えですが、
今日の暑さにかけて端的にあらわすと、
「このくそ暑い元は、私自身にあり、
このくそ暑さの正体は、私自身である。」
と、まったく受け入れられない教えであります。
しかし、暑さを感じているのは、私自身であるのは、
否定しようのない事実。
ううう、なるほど…
葬儀の際、祭壇にたくさんの色花で飾ることを「供華」といいます。
華は人生に例えると「完成」を意味して、華を供えることは人生の完成を表すことです。さらに私たちは、理屈ではなく無条件で華を好み、華に多くの意味を持たせます。
「仏説阿弥陀経」には、極楽浄土では「大きな蓮の花から、青い光や黄色い光、赤い光や白い光が美しく光り、とても芳しい香りを放っている」と説かれています。
蓮の花は、泥の中にあって美しく咲く花として、「この世の五濁悪世でも蓮のように美しく生きなさい」という仏さまからのメッセージを持っています。しかし、時がたてば美しい蓮も朽ち果ててしまいますが、花の実の中では、また次に咲くための種が内包されています。そのようにして花のいのちは永遠に繋がっていきます。
この、美しいいのちのつながりを〝あみだ〟と称え奉るのが「供華」の本来であります。
今日ともしれず、明日ともしれず、ひとの命のはかなきこと夢幻の如く、
明日には紅顔ありてゆうべには白骨となれる身なり。
後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみ参らせて
念仏申すべきものなり。
(白骨のご文章)
わたしたちは、いつ死ぬかなどと考えてみても、今日かもしれないし、明日かもしれないと、極めて残酷で無情な事象の中で生きています。
しかし、今日かな?明日かな?などと思いつめて生きるなどありえません。
〝自分の死〟などは、先延ばしに延ばしてぼんやりさせていないと、とても生きてはいけません。
でも、その厳しい現実を違う形で見せつけられるのが〝家族の死〟です。
家族の死は、否応もなく死のおそろしさに引き込まれます。
しかし、そういった死の恐怖を緩和するのが宗教であり、宗教に基づいた葬送儀礼であります。
今一度、形骸化してしまった葬送儀礼のあり方を考えなければなりません。
日本仏教史のなかで、時に奈良時代は主に「官僧」という僧侶が政治を担う重要なプレヤーでした。
一方で、民衆のなかに身を置き、その優れたキャラクターで絶大な人気を博した僧侶たちもいました。その代表的な存在が「行基」です。
彼らのような僧侶の中には、厳しい修行に耐え抜いた超人的な験力を基に、加持祈祷によって病苦を癒す「看病僧」が、現代でいう医者として各地で民衆からの信頼を得ていたと、平安初期に編まれた「日本霊異記」では伝えています。
仏教は、生きるための道を示す教えであります。その教えは、生きることの苦悩を滅する具体的な方法を教授しています。これは釈尊が教えを説いて2500年もの間受け継がれてきた普遍性がその事実を証明しています。
医学についていえば、特に現代医療は〝局地的治療〟が目的であり、人間の本性を癒すものではありません。
生きるために大切な〝抜苦与楽〟を施すのが現代の「看病僧」ではないかと考えます。
アミダ仏は太陽をシンボライズした絶対仏であります。
経典ではアミダ仏のほか、〝無量寿仏〟や〝無量光仏〟の名が登場します。
アミダはサンスクリット原語のアミターの音写で「無量」の意味です。
そこに、アーユス「寿命」や、アーバー「光」を加えれば、
無量寿や無量光になるというわけです。
アミダ仏を一言でいうならば「永遠の命」ということになります。
太陽のような超越的な存在が、西の彼方に沈んでいく様をみて、
その先にある仏の世界を見出したのが「浄土信仰」の原点です。
しかし、西の彼方にある極楽浄土は、外の世界ではなく、
自分の内にあるとも考えます。自分の考え方や行いを正し、
至心にアミダ仏の名を呼び続ければ、そのうち真理を得て、
生きながらにして極楽浄土に達するのです。
極楽浄土は〝場所〟ではなく〝状態〟と考えれば、
現実味をもって捉えることができるかもしれません。
日付が変わって寝静まる時間に〝お寺の介護はいにこぽんのいえ〟から緊急搬送の報告が入り、施設長としての私も自宅から高速道路で施設に向かう。
搬送先の病院で検査を行った結果、明け方に施設へ戻ることができた。
やれやれと胸をなでおろすも束の間、こんどは、夜勤職員が2名同時に退職を願い出た。
おそらく、この時点の私は、自律神経も交感神経メーターがレッドゾーンを振り切り、呼吸も荒く、心拍数も上がり、血圧もたぶん200近くあり、そのおかげで、慢性的な顔の発疹も活況づいて、餓鬼畜生の面だったにちがいない。トホホ。
『ただまさに、やわらかなる容顔(ようがん)をもて、一切にむかうべし』
これは、曹洞宗の道元禅師の 著書「正法眼蔵」で記された おことばで、「どのような状況でも身も心もただ一心に穏やかで和やかな態度で接しよ」という意味。
何事があっても、この意をもって動じない人間力を養わなければ、人様から信を得る僧侶にはなれない。
肝に命ぜよ! 反省!
〝平生業成〟といえば親鸞聖人がお説きになった浄土真宗の大看板です。
成仏について、おそらく一般的に理解されているとすれば、人は死んでから仏さまに成ることを指しあてていますが〝平生業成は〟生きながらにして往生成仏が成就することです。
成仏とは「究極の安らぎを得る」ことですが、生きながらにして究極の安らぎを得ることは至難の中の難大です。
まずは、生きながらにして「究極のやすらぎを得る」ための教えがあることに気づかされなければ平生業成の域には向かえません。
仏教はそのための手段を多く提供しています。亡くなった人を供養するのも、そのうちのひとつです。
供養とは、私の心を養って育てるための大切な方法です。
3月19日はしまの祥月命日です。
しまが旅立って9年経ちました。
ことしは、
しまが旅立ったあとに生まれた三女が、
しまとおなじ年令になります。
いまの私たちがそれ相応に暮らしているのは
まちがいなくしまのお陰だと感じています。
しまさん、ありがとう。