葬儀の際、祭壇にたくさんの色花で飾ることを「供華」といいます。
華は人生に例えると「完成」を意味して、華を供えることは人生の完成を表すことです。さらに私たちは、理屈ではなく無条件で華を好み、華に多くの意味を持たせます。
「仏説阿弥陀経」には、極楽浄土では「大きな蓮の花から、青い光や黄色い光、赤い光や白い光が美しく光り、とても芳しい香りを放っている」と説かれています。
蓮の花は、泥の中にあって美しく咲く花として、「この世の五濁悪世でも蓮のように美しく生きなさい」という仏さまからのメッセージを持っています。しかし、時がたてば美しい蓮も朽ち果ててしまいますが、花の実の中では、また次に咲くための種が内包されています。そのようにして花のいのちは永遠に繋がっていきます。
この、美しいいのちのつながりを〝あみだ〟と称え奉るのが「供華」の本来であります。
カテゴリー: 葬儀
葬送儀礼所感その18
今日ともしれず、明日ともしれず、ひとの命のはかなきこと夢幻の如く、
明日には紅顔ありてゆうべには白骨となれる身なり。
後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみ参らせて
念仏申すべきものなり。
(白骨のご文章)
わたしたちは、いつ死ぬかなどと考えてみても、今日かもしれないし、明日かもしれないと、極めて残酷で無情な事象の中で生きています。
しかし、今日かな?明日かな?などと思いつめて生きるなどありえません。
〝自分の死〟などは、先延ばしに延ばしてぼんやりさせていないと、とても生きてはいけません。
でも、その厳しい現実を違う形で見せつけられるのが〝家族の死〟です。
家族の死は、否応もなく死のおそろしさに引き込まれます。
しかし、そういった死の恐怖を緩和するのが宗教であり、宗教に基づいた葬送儀礼であります。
今一度、形骸化してしまった葬送儀礼のあり方を考えなければなりません。
葬送儀礼所感その17
アミダ仏は太陽をシンボライズした絶対仏であります。
経典ではアミダ仏のほか、〝無量寿仏〟や〝無量光仏〟の名が登場します。
アミダはサンスクリット原語のアミターの音写で「無量」の意味です。
そこに、アーユス「寿命」や、アーバー「光」を加えれば、
無量寿や無量光になるというわけです。
アミダ仏を一言でいうならば「永遠の命」ということになります。
太陽のような超越的な存在が、西の彼方に沈んでいく様をみて、
その先にある仏の世界を見出したのが「浄土信仰」の原点です。
しかし、西の彼方にある極楽浄土は、外の世界ではなく、
自分の内にあるとも考えます。自分の考え方や行いを正し、
至心にアミダ仏の名を呼び続ければ、そのうち真理を得て、
生きながらにして極楽浄土に達するのです。
極楽浄土は〝場所〟ではなく〝状態〟と考えれば、
現実味をもって捉えることができるかもしれません。
葬送儀礼所感その16
〝平生業成〟といえば親鸞聖人がお説きになった浄土真宗の大看板です。
成仏について、おそらく一般的に理解されているとすれば、人は死んでから仏さまに成ることを指しあてていますが〝平生業成は〟生きながらにして往生成仏が成就することです。
成仏とは「究極の安らぎを得る」ことですが、生きながらにして究極の安らぎを得ることは至難の中の難大です。
まずは、生きながらにして「究極のやすらぎを得る」ための教えがあることに気づかされなければ平生業成の域には向かえません。
仏教はそのための手段を多く提供しています。亡くなった人を供養するのも、そのうちのひとつです。
供養とは、私の心を養って育てるための大切な方法です。
葬送儀礼所感その15
今回は民俗学視点で死について考えます。
哺乳類のなかで〝死〟についての概念を有するのは人間だけだそうです。
犬や猫、猿などは死を理解できていないと動物学者の研究で明らかになっています。いわば、犬や猫、猿が仲間の死に際し、取り囲んで砂をかけたり、毛づくろいをしたり、食べ物をそなえたりなどすれば、それはとても不思議なことです。
一方で人間は進化の過程で〝死〟を学習し〝死の儀式〟を生み出したとされます。
死は人間が進化し続けるための〝知恵〟を与えました。それが信仰です。そして信仰を基にした宗教的な連帯の中から互助精神を養い、福祉や医療、学問などの高度な文明へと発展させてきました。このように私たち人類が奇跡の発展を成し得た原点には〝死〟を概念として掴みとったことだと考え、この壮大なドラマを身近で大切な人の死に引き寄せつつ人間の死の問いを深める重要さが増してきます。
葬送儀礼所感その14
人が亡くなりますと〝西方の極楽浄土〟に還ると教義には記されています。
極楽浄土は〝阿弥陀仏〟が創造した安楽の世界とされ、人間は、ただ願いさえすれば誰でも極楽浄土に還り新たに仏として生まれることができるとされています。
この極楽浄土を事実として受け入れ信じ切ることは、現代人の私たちには出来ないでしょう。どうしても科学的根拠や現実主義の思想が影響してしまいます。
ある新聞社のアンケート調査によると、「自分が死んだらどうなると思いますか?」という問いには「無になる」と答えた人が多いのは、現代人の死生観の特徴のひとつです。しかし一方で興味深いのは、「大切な人が亡くなったどうなると思いますか?」という問いには「ご先祖のもとにいく」「天国にいく」などの答えが多く、自分の死後と大切な人の死後の捉え方には矛盾が生じています。
これは「大切な人は無になってほしくない」という心情の表れで、これこそが宗教的思惟の発露であり信仰の原点でもあります。
大切な人の居場所を示した教義を、現代人の感性に合った表現で伝道することが宗教者の重要な役割です。
葬送儀礼所感その13
葬儀の際にとなえるお経は、故人のためでなく、その場に集う遺族のためである、と教義にはあります。
これは、お経の力によって故人を成仏に導くのではなく、お経で説かれているお釈迦様のおことばを聞かせていただくのが本来であるからです。
しかし〝故人のためではない〟というのは、故人は死んでいてお経を聞くことができない、すでに故人を無きものとしてみていることになります。
私たち生命の死は、医療では三兆候「自発呼吸の停止、心配の停止、瞳孔が開く」の状態を死ととらえています。そして、それを診断した医師の判断「死亡診断書」によって法律での死も確定されます。
でも体の中の細胞死は三兆候や死亡診断書とは別に、少しづつ穏やかに時間をかけて遂げていくものです。
そう考えると、葬儀の時でも、故人は棺の中にいながら故人の細胞はゆっくりと細胞死の過程を辿っていて、無きものとしてみるのは明らかな間違いです。
故人の細胞は葬儀の中でお経を聞いているとおもえば、その意義は極めて重要といえます。
葬送儀礼所感その12
惟みれば、人というのは
孤独のうちに生まれて、孤独のうちに死ぬ、
孤独のうちに去り、孤独のうちに来る。
「独生独死独去独来」…仏説無量寿経
愛する家族や親族、知友にどれほど恵まれた人でも、
死が訪れた時、それはその人独りだけのもので、
独りだけのものであるがゆえに、崇高である。
人はどれだけ生きたか、ではなく、
どのように生きたか、が本質であり、
どのような価値のある人生を歩んだのか、
その人の体験価値が人生の終わりを支える。
明日死ぬとわかっていても、
どのように素晴らしい人生を生きてきたのか、
と自分に問い合わせながらその時を迎えるのだ。
葬送儀礼所感その11
阿弥陀仏のことを“不可思議光如来”とお讃することがあり、また“無量寿光如来”といっていただくこともあります。
いずれも“光”を重んじています。そして阿弥陀仏から照らされる真実の光明は十二の働きがあると「正信念仏偈」に説かれています。
無量光…はかりなきひかり
無辺光…ほとりなきひかり
無碍光…さえぎるものなきひかり
無対光…ならびなきひかり
炎王光…このうえなきひかり
清浄光…きよらかなひかり
歓喜光…よろこびのひかり
智慧光…ちえのひかり
不断光…たえることなきひかり
難思光…おもいをこえたひかり
無称光…ほめつくせないひかり
超日月光…にちげつにこえたひかり
このような、極めてありがたい光明に照らされているのが私たちです。この光を感じることことができるようにするのが供養です。
葬送儀礼所感その10
大方の人たちが考える死は、おそらく「死は一巻の終わり」と言うべきだろう。
ただ、この事実をどう受け止めるべきなのか。
その本質について、一体どう考えるべきか。
死は本当に悪いことなのか。
永遠に生きる方が良いのか。
死を恐れるのは適切か。
避けようのない最後が待っていることを知っているのなら、その知識に照らしてどう生きるべきなのか。
〜シェリー・ケーガン/紫田裕之訳(2018)「死とは何か」文教社〜
死は本当に一巻の終わりなのだろうか…
終わりとは何を持って言うのだろうか…
では延々に生きることができたとして、それが私たちが求めていることの本質なのだろうか…
私たちは死の恐怖に打ち勝つことができるとして、それには何が必要なのか…
思索は尽きない