盆法要と盆踊り


➕西栄寺大本山盆法要及びはいにこぽんお盆法要を勤修しました。
大本山では、昨年の夏以降当院でお勤めをした仏様の白木位牌を全て奉ります。

➕にこぽんの盆法要は、住職と副住職が揃ってお出ましになり厳かに読経いただきました。

➕盆踊りは、節の軽快さに楽太鼓の響き、こんなにも盛り上がるとは思いませんでした。
みんなが笑顔で楽しむ、改めて〝お祭りの力〟を実感しました。

送り盆法要

今年は台風の影響もあり、何かとドラマの多いお盆参りの日々でしたが、おかげさまで無事に終えることができました。みなさま、本当にありがとうございました。

令和5年8月15日

お盆という不思議

わたしたちは、ご先祖や亡き人が、どこにいて、どんなふうにお過ごしになっているかということを思い詰めるまでではありませんが、それでも時に、普段の暮らしの一片で、その存在を至極身近に感じる瞬間があったり、また、もう会うことができない寂しさをあらためて痛感したりします。このような故人に対する想いは、遺族である私たちには共通しています。とりわけ、この想いが〝お盆〟という期間になりますと「故人が帰ってくる」という切実な愛惜が湧き上がり、一様にお盆室礼の型に習い、お仏壇が有ろうが無かろうが、お迎えの準備万端整えて、ご先祖や亡き人の一時帰宅を待ち望みます。さらに、滅多に帰省できない遠方で暮らす子供や孫たちも〝お盆休み〟よろしくこの時ばかりと、お供物を土産に携えてやってきます。このお盆という時期にわたしたちは、なぜここまで亡き人への想いを形にするのでしょうかと、よくよく考え廻らしてみても理屈ではまったく説明できない不思議さと、非合理なことが苦手な現代人でも「お盆だけは!」と言ってお坊さんに読経を依頼する健気な想いで営まれるのがお盆であります。
お盆の日中は〝せみ〟が鳴き、夕暮れほどなく〝ひぐらし〟が鳴き始めます。夕べに供えたお線香の香りがほのかに漂うなか、子供や孫たちのにぎやかな声とともに、夕食をつくる音が聞こえてきます。もしこの場に「亡き人がいてくれら・・・」と想うと切ない気持ちと同時に、ありふれた日常にこそある本当の幸せが見えてくる瞬間であります。お盆という仏事をを営む大切な意味はここにあるのかもしれません。

原爆犠牲者の供養

西宮市は市内の宗教法人にむけて、8月6日広島原爆の日と8月9日長崎原爆の日の両日に慰霊のための鐘を鳴らすよう広報しています。
西宮有馬坊は梵鐘を置いていない為、毎年ご供養の法要を営みます。
今年もしっかりと勤行をさせていただきました。
どうか、戦争無くなり核兵器をはじめ多くの兵器が無くなり、平和が訪れますように心より念願を申しあげます。合掌・南無阿弥陀仏。

花まつり

4月8日はお釈迦さまの誕生日です。
お釈迦さまがお生まれになったとき、お堂を花で飾ってお祝いをしたと言い伝えがあり、現在でもそれを模した仏教行事が営まれます。
西宮有馬坊でも、本日は、「降誕法要」を勤修致しました。
その様子は、下記のリンク先で視聴できます。

生死の境

お寺の介護はいにこぽん
高齢者住宅の現実
生死の境がここにある
厳しい夜が続く…

生死の苦海ほとりなし
ひさしく沈める我らをば
弥陀弘誓の舟のみぞ
乗せて必ず渡しけり・・・高僧和讃

特に夜勤は2名でその重責を担う厳しい職種


霊感商法

以前、当寺に霊感商法で買わされたという仏像のお引き取り依頼がありました。
そのときは、このご時世に未だそんなことしている宗教者がいるのか!?と驚きましたが、最近の宗教団体のニュースなどから、今もまことしやかに、そのような憂慮すべきことが起こっていることに、同じ宗教者として腹立たしく思います。
思えば「葬儀のお布施を100万円支払った」とか「戒名を授けてもらうのに80万円かかった」また「お墓を終うのに200万円請求された」などの既存仏教の寺に関する話を耳にしたこともありますが、宗教に関することが、その人に苦しみを与えているとすれば、既存仏教寺院であれ新興宗教であれ、これは宗教ではありません。〝宗教〟を隠れ蓑にし〝信仰〟につけ込んだ非道な行為です。
宗教の基本は〝救い〟です。誰しもが救われなければなりません。
西宮有馬坊でも、改めてこの基本に立ち返り、皆様方の安穏のために尽力しなければならないと心を強くしている次第です。


祈り

世間を騒がしている宗教団体についての一考。
個人の信仰について、その対象が何であれ個人が希望と勇気を与えられるとしたら、それは絶対に尊重されるべきです。
しかし、カルト宗教でよく言われている「無理強いな勧誘」「しつこい勧誘」「心理的恐怖の植え付け」「高額な寄付や宗教品購入の強要」「家族からの引き離し」などの行為は極めて憂慮すべき問題で、これは宗教的行為ではなく反社会的な行為というべきです。
しかし、これらの行為も、団体からの強要ではなく個人が自発的に行い、そのことで精神的安定を得る場合もあり、単純に批判をしづらい側面もあります。
また、いかなる宗教的な行為も、その行動原理は〝個人が救われる〟ことにあり、そのための行為の濃淡が救いの明暗を左右する旨の解釈ができる教義があるもの事実です。
しかし本来の宗教は、行為の程度によって救いが決まるのではなく、行為そのものが尊いのであり、この尊い宗教的行為の第一義は〝祈る〟ことにあります。
宗教の教えにある、「人前で祈りを見せたりするのではなく、暗い部屋に入り一人静かに祈りなさい」という言葉が示す通り、宗教的な行為は自分の中に向けて行われるべきことであり、教団や同胞に対し行われるものではありませんし、ましてや、程度の大きさや寄付の多さで救いが確実になるのでは決してありません。
西栄寺西宮有馬坊とご縁のあるみなさまにとって、心豊かな尊い祈りによって、穏やかにあられますことを心より念願しております。

南無阿弥陀仏