新たな挑戦

思えば平成11年に西栄寺に入寺し来年がちょうど20年になります。しかし来年は平成ではありません。新しい年号の元年になります。そしてさらに来年で私は満50歳です。そう考えると私の人生、来年からは新たな挑戦の開始となります。
禅の世界には「百尺竿頭に一歩を進む」という言葉がありますが、これまでに最大の努力をしてきたとしても、さらにもう一歩進む、という意味です。
この禅語を側に上げ、私の人生で迎える50歳代の10年、そして新しい元号の中で、僧侶としてどこまで出来るか、大いなる挑戦です。

『我行精進 忍終不悔』 。。讃仏偈
行く道は精進して 忍びて終わり悔いなし

深き秋

月日の流れは早いものです。歳を重ねるほど痛感します。
平家物語には「盛者必衰」とありますが、それもまた、秋が紅葉するように美しいことなのかもしれません。

西国二九番・青葉山松岡寺にはt次のような戒めが言い伝わっています。
「老いの戒め」
一、紅葉は春の花よりも更に趣あり、若きより老いて後人間は円熟す、晩成すべし
二、昔日を自慢すべからず、人の価値は今日に定まる、励むべし
三、余命少なき一日は、若き日の十倍の価あり、慎むべし
四、世間に陰徳の種子まけば、家門に陽報の花咲かん、努むべし
五、いまだ死を免れたるものはあらず、迎えのある時は、安んじて旅立つべし

毎日を丁寧に生きて、自然の摂理を素直に受け入れて委ねていくことが肝要かと
感じています。

秋深まる西宮坊の階段

雨の西宮坊

西宮の念仏道場は、雨が降れば植物が生き生きとします。
私たち人間は雨を少々鬱陶しく感じますが、本来雨は自然からの恩恵なんですね。その様子が見てとれる念仏道場の雨が私は大好きです。

「草木国土悉皆成仏」“そうもくこくどしっかいじょうぶつ”
草や木、土のなかの微生物にいたるまで全ての生き物には“仏”が宿っています。
そして、そのような有難き植物を摂取して生きているのが私たち人間です。
生かされていることの感謝を忘れてはなりません。
合掌

葬送儀礼

~ 亡き人に教えられ育てられ ~

生きとし生けるもの全ての人に必ず訪れるこの世とのお別れ。未だかつて、この事実から逃れたものはだれ一人としていません。なぜ生きるものは全て死を迎えるのでしょうか。

それは、 死があるからこそ命を輝かすことができる。
限りある命であるからこそ尊いのです。
かけがえのない命を日々丁寧に生きたいものです。

本日のお葬儀をお勤めして感じたこと。

南無阿弥陀仏…合掌

なんでも相談会

某所の企画で「きさくなお坊さんのなんでも相談コーナー」を受け持ちました。
多くの方がお越しくださいましたが、その中で考えさせられたことがあります。
それは、ご先祖や仏様をを大切に感じられている方々多くいる一方で、お寺や僧侶に対する不信感から、仏事を営むことが億劫になってしまっているという悲しき現実です。
なぜそのような不信感があるのか。このことについては、他寺のことを批評する依然に、私自身のこととして受け止めて改善しなければならないと痛感しました。

和尚の語源は「オッジャー」というサンスクリット語の〝優しく親しみのある先生〟という意味ですが、当寺の界隈では、“一番気安い坊主”として売ってる私ですから、真の和尚と呼んでいただけるように、和尚のあるべき姿に近づけるよう精進を重ねていく所存です。

合掌

無量寿

「無量寿の中に居る私です。生きて良し、死んで良し。」

無量寿とは「永遠の命」のことを言います。
永遠の命とは、「命のつながり」と考えます。
私たちは、この永遠の命のつながりの中に存在しています。
命とは人間だけではありません。
動物はもちろんですが草や木、土の中にいる微生物も命です。
そのような無数の命のつながりの中で生かされて居るのです。
このような感覚を持つことは、
日々生きることの尊い意味を感じ得ることにつながります。
これを「宗教的発露」と言って、一種の悟りでもあります。

私のように食べることに卑しく、草や木や微生物など好き嫌いなく、
なんでもむしゃむしゃいただくのも一つの悟りでしょうか…
いや、ちゃうやろ…
(゚∀゚)キタコレ

ご縁

10月に入りました。
お盆が過ぎ、お彼岸が過ぎ、私にとってほっと一息つく10月です。
じっくりと日帰り温泉などで思いふけりたいものですね。
何気ない1日の中にも、多くの人と出会います。
たまたま立ち寄ったコンビニの店員さんも出会いの一つとしたら、
それはたくさんの人と出会っているといえます。
そのような多くの出会いには必ず意味があるとしたら、
もしも、前世でなんらかの繋がりのある人だったら、
と考えるとなんだか嬉しくなりませんか。
仏教の教えでも基本をなすのが、この「縁」にあります。
世の中のすべでの事象は過去現在未来の三世十方を貫く道理「縁」によって成り立っていて、その全ての結果に原因があり意味があるということです。
私と奥様が知り合って結婚に至ったのも意味があってのことなのです。
という話を奥様すると「そんな話無意味やし、まだ離婚するかもしれへんから結果出てません!」

今日も一日、深き尊きご縁に報謝の心で尽くしましょう…

9月9日

本日9月9日は救急の日ではありますが、実は私の誕生日であります。
今日で49歳になります。

人生の半ばを過ぎてようやく、この先の人生見えてきたような気もします…
なーんて「四十五十は鼻垂れ小僧!」といわれますので、まだ私は幼児並みのスキルしか無いと思うべきで、「人生見えてきた」とは何をいきがってんねん!と考えるべきです。

まだまだ行わなければならない事山積で、人生の郷愁に浸っている暇はありまへん!

「凡事徹底」とは私の一番大切にしている言葉です。
誰もができることを誰もができないくらいとことんする。

いざ!五十代に向けて胸を張って進むつもりです。

台風

いやはやこの度の台風はとんでもなかったですね。
被害状況は、西宮坊はそれほどでもありませんでしたが、家族が住まう自宅は停電と断水に見舞われて不便でした。
このような状況になって痛感するのが、 世の中の便利なシステムの中では、人の力は全く弱いものだということです。
自然の猛威にも弱く、人間自らが構築したシステムにも弱い。
だからこそ謙虚に、また、日常の暮らしをありがたく感謝し、社会に奉仕し神仏を称え奉らなければならないと意を強くする思いです。

処暑!

8月はたったの一度もブログの更新ができませんでした。。。反省(-ノ-)/Ωチーン

今年のお盆参りは、日々全力投球の中、お寺に戻りましたら入浴と食事を済すや否や、、気を失うように床に治っていました。
しかし、9月に入り、8月を振り返りますと、 本当に多くの檀信徒さまとお話をするご縁をいただけたことに、充実感と幸せな気分で満たされます。

やはり人である以上、 人と接することが何より最大の喜びではないでしょうか。
「人は情けの下に立つ」と聞くと古臭い時代遅れなことわざに感じますが、ドライな格好良さを求めても結局はドライな自分を認めてくれるのは他人ですから、その他人がいなければドライもウエットも成り立たないわけです。

私はどちらかといえば、Greasy(グレイシー)でベトベトしたいやらしい人柄です…