葬送儀礼

~ 亡き人に教えられ育てられ ~

生きとし生けるもの全ての人に必ず訪れるこの世とのお別れ。未だかつて、この事実から逃れたものはだれ一人としていません。なぜ生きるものは全て死を迎えるのでしょうか。

それは、 死があるからこそ命を輝かすことができる。
限りある命であるからこそ尊いのです。
かけがえのない命を日々丁寧に生きたいものです。

本日のお葬儀をお勤めして感じたこと。

南無阿弥陀仏…合掌

なんでも相談会

某所の企画で「きさくなお坊さんのなんでも相談コーナー」を受け持ちました。
多くの方がお越しくださいましたが、その中で考えさせられたことがあります。
それは、ご先祖や仏様をを大切に感じられている方々多くいる一方で、お寺や僧侶に対する不信感から、仏事を営むことが億劫になってしまっているという悲しき現実です。
なぜそのような不信感があるのか。このことについては、他寺のことを批評する依然に、私自身のこととして受け止めて改善しなければならないと痛感しました。

和尚の語源は「オッジャー」というサンスクリット語の〝優しく親しみのある先生〟という意味ですが、当寺の界隈では、“一番気安い坊主”として売ってる私ですから、真の和尚と呼んでいただけるように、和尚のあるべき姿に近づけるよう精進を重ねていく所存です。

合掌

無量寿

「無量寿の中に居る私です。生きて良し、死んで良し。」

無量寿とは「永遠の命」のことを言います。
永遠の命とは、「命のつながり」と考えます。
私たちは、この永遠の命のつながりの中に存在しています。
命とは人間だけではありません。
動物はもちろんですが草や木、土の中にいる微生物も命です。
そのような無数の命のつながりの中で生かされて居るのです。
このような感覚を持つことは、
日々生きることの尊い意味を感じ得ることにつながります。
これを「宗教的発露」と言って、一種の悟りでもあります。

私のように食べることに卑しく、草や木や微生物など好き嫌いなく、
なんでもむしゃむしゃいただくのも一つの悟りでしょうか…
いや、ちゃうやろ…
(゚∀゚)キタコレ

ご縁

10月に入りました。
お盆が過ぎ、お彼岸が過ぎ、私にとってほっと一息つく10月です。
じっくりと日帰り温泉などで思いふけりたいものですね。
何気ない1日の中にも、多くの人と出会います。
たまたま立ち寄ったコンビニの店員さんも出会いの一つとしたら、
それはたくさんの人と出会っているといえます。
そのような多くの出会いには必ず意味があるとしたら、
もしも、前世でなんらかの繋がりのある人だったら、
と考えるとなんだか嬉しくなりませんか。
仏教の教えでも基本をなすのが、この「縁」にあります。
世の中のすべでの事象は過去現在未来の三世十方を貫く道理「縁」によって成り立っていて、その全ての結果に原因があり意味があるということです。
私と奥様が知り合って結婚に至ったのも意味があってのことなのです。
という話を奥様すると「そんな話無意味やし、まだ離婚するかもしれへんから結果出てません!」

今日も一日、深き尊きご縁に報謝の心で尽くしましょう…

9月9日

本日9月9日は救急の日ではありますが、実は私の誕生日であります。
今日で49歳になります。

人生の半ばを過ぎてようやく、この先の人生見えてきたような気もします…
なーんて「四十五十は鼻垂れ小僧!」といわれますので、まだ私は幼児並みのスキルしか無いと思うべきで、「人生見えてきた」とは何をいきがってんねん!と考えるべきです。

まだまだ行わなければならない事山積で、人生の郷愁に浸っている暇はありまへん!

「凡事徹底」とは私の一番大切にしている言葉です。
誰もができることを誰もができないくらいとことんする。

いざ!五十代に向けて胸を張って進むつもりです。

台風

いやはやこの度の台風はとんでもなかったですね。
被害状況は、西宮坊はそれほどでもありませんでしたが、家族が住まう自宅は停電と断水に見舞われて不便でした。
このような状況になって痛感するのが、 世の中の便利なシステムの中では、人の力は全く弱いものだということです。
自然の猛威にも弱く、人間自らが構築したシステムにも弱い。
だからこそ謙虚に、また、日常の暮らしをありがたく感謝し、社会に奉仕し神仏を称え奉らなければならないと意を強くする思いです。

処暑!

8月はたったの一度もブログの更新ができませんでした。。。反省(-ノ-)/Ωチーン

今年のお盆参りは、日々全力投球の中、お寺に戻りましたら入浴と食事を済すや否や、、気を失うように床に治っていました。
しかし、9月に入り、8月を振り返りますと、 本当に多くの檀信徒さまとお話をするご縁をいただけたことに、充実感と幸せな気分で満たされます。

やはり人である以上、 人と接することが何より最大の喜びではないでしょうか。
「人は情けの下に立つ」と聞くと古臭い時代遅れなことわざに感じますが、ドライな格好良さを求めても結局はドライな自分を認めてくれるのは他人ですから、その他人がいなければドライもウエットも成り立たないわけです。

私はどちらかといえば、Greasy(グレイシー)でベトベトしたいやらしい人柄です…

超酷暑!

日光に照らされて暑そうな仏様

とんでもない暑さが続いています。
兵庫県の豊岡では38.6度で全国一番だったらしいですが、わが西宮坊も、あまりの高温で本堂の冷房が効かない状態です。
さらに、僧侶が着る真っ黒の衣などの黒い衣装は、テレビ情報によると、 表面は場合によっては50度くらいまで上昇するそうです。
なんて恐ろしい…
「夏の小袖」ということわざがありますが、夏のお衣でも小袖なみの暖かさ!?
「夏布子の冬帽子」などのことわざもありますが、西宮坊の石段回廊に祀っている仏様も、どこか暑そうにされて居られる様子が気の毒でなりません。

合掌

酷暑!

こんな時期にゴルフに行くとは、我ながら奇特であると感じ入ります。

飲み水を2リットル持参しましたが、 見事に飲み切りました。
後半は、意識がもうろうとして、あまり覚えていません。
スコアなどはいうまでもなく、 生命に危険をおよぼすような酷暑だと注意喚起されている意味を体感した1日でした。

「思わじと思うも物を思うなり、思わじとだに思わじやきみ」
沢庵和尚の古歌ですが、暑いとお思えば暑いのは当たり前で、暑くないと思っても、それは暑いからそう思うのであって、暑いとも暑くないとも思うなとお示しであります。

奥深い…

旧友

久しぶりに旧友が3人集いました。
そのうちの一人とは20年ぶりです。
各自それぞれ当時からすれば、生活環境が激変しています。
でもこうして久しぶりであっても、当時のまま自然と話せるものですね。

禅宗の祖。道元は「同事というは不違なり。自にも不違なり。他にも不違なり。」と示しています。
これは、他人と同和するとき平凡な自分であるべきことをことさら強く戒めて、他人と同じく時を過ごすための極意であります。

今夜は、僧侶という立場を忘れて、旧友との時間を楽しみたいと思います。