雨の西宮坊

西宮の念仏道場は、雨が降れば植物が生き生きとします。
私たち人間は雨を少々鬱陶しく感じますが、本来雨は自然からの恩恵なんですね。その様子が見てとれる念仏道場の雨が私は大好きです。

「草木国土悉皆成仏」“そうもくこくどしっかいじょうぶつ”
草や木、土のなかの微生物にいたるまで全ての生き物には“仏”が宿っています。
そして、そのような有難き植物を摂取して生きているのが私たち人間です。
生かされていることの感謝を忘れてはなりません。
合掌

しまの日

小学1年生のしま

19日は“しま”の日です。

私が現在のように僧侶でありながら、介護福祉士や臨床宗教師として、活動している原点には“しま”の存在があるからです。“しま”は多くの支援をいただきながら命を輝かすことができました。そのご恩に報いるために、同じ社会福祉の中で支援活動を実践することが、一つの供養のあり方だと考えています。

介護の基本セミナー

介護の基本は自立支援です。
何でもかんでもお手伝いするヘルパーさんよりも、高齢者が自分でできるように専門家の知識を活かして支えるヘルパーが優秀といえます。
家族が介護をする場合も、もどかしさを感じたとしても、高齢者自身の暮らしを見守りつつ、高齢者自身ができないところにのみ手を差し伸べることが重要で、結果的この姿勢が介護の重度化を防ぐことになります。

今日はそのような介護のあれこれを、お寺の介護とお坊さんヘルパーの第一人者、唯一無二の存在、そう!私!吉田敬一がお伝えいたしました。

葬送儀礼

~ 亡き人に教えられ育てられ ~

生きとし生けるもの全ての人に必ず訪れるこの世とのお別れ。未だかつて、この事実から逃れたものはだれ一人としていません。なぜ生きるものは全て死を迎えるのでしょうか。

それは、 死があるからこそ命を輝かすことができる。
限りある命であるからこそ尊いのです。
かけがえのない命を日々丁寧に生きたいものです。

本日のお葬儀をお勤めして感じたこと。

南無阿弥陀仏…合掌

倫理委員会

大阪市内の中核病院の「拡大倫理委員会」に出席しました。
病院では、治療方針や終末期をめぐる対応のたびに倫理委員会を開催し、個別の案件を審議します。
今回私は、年に数回開催される拡大委員会に宗教者として召集されました。病院で用いられるのは「生命倫理」であり、ここには正解がありません。正解がないからこそ、多くの専門家が多義的に議論することが重要です。医療科学の目覚ましい発展とともに生命倫理のあり方も変化します。その中において普遍的なものをしっかりと確保するのが宗教者としての役割かと考えています。

普遍的なものというのは「命」とは唯一無二の存在であると同時に、過去から現在そして未来と永遠に繋がっているという尊さです。人間の能力によって命の尊さをも管理しようとすべきではありません。管理などできないからこそ尊いのです。

神道の世界に「円満虚無霊性」という考えがあります。神とは何か?霊性とは何か?この答えが「円満虚無霊性」です。例えば、円満は100%と捉え、虚無は0%と捉えその両方100と0が同時に存在する。完璧に在るものと全くの無、これら全てを包括する存在が円満虚無霊性であります。

さらにもっとわかりやすく説明しますと、私の奥様への愛情は円満。奥様の私への愛情は虚無。なのに一緒に暮らしているのはなぜか?
それは大いなる存在のお導きが在るからなのです!!キタ━(゚∀゚)━!
っていうてる場合やあれへんし…

ついにきた!ハロウィン!

ハロウィンと聞いて思い出すのは、
緩和ケア病院で傾聴活動をしていた時、ハロウィンの飾り付けを見た患者さんと奥さんの会話です。
患者さん「これなんや?」
奥さん「外国の地蔵盆や!」
私の心「納得!感激!」

けれど、最近の子供達には地蔵盆よりハロウィンの方が圧倒的に人気ですね。
我が家の三女もせっせと飾り物を自作していました。

死とは何か!

シェリー・ケーガン/柴田裕之訳(2018)「死」とは何か 文響社

仏教では、そもそも人間の本質は「苦」であると解く。
「一切皆苦」とは、人生の全ては苦であり、苦を滅しようとしてもより苦に苛まれることになると説く。この苦の根源は一体なんだろうか。それは“死”である。人生は“死”で終わるのだ。
人はなぜ死ななければならないのか。死とは何か!
この恐怖に打ち勝つ術が宗教であり仏教である。

・私たちは何者なのか
・人間とはどのような存在なのか
・私たちには魂があるのか
・私たちが死後も存在し続けるには

この本は、死の本質を問うた時に沸き起こる疑問を命題化し、哲学的、心理学的、社会学的に考察し、さらに読者自らが「死」について考えるためのプロセスを示している。

なんでも相談会

某所の企画で「きさくなお坊さんのなんでも相談コーナー」を受け持ちました。
多くの方がお越しくださいましたが、その中で考えさせられたことがあります。
それは、ご先祖や仏様をを大切に感じられている方々多くいる一方で、お寺や僧侶に対する不信感から、仏事を営むことが億劫になってしまっているという悲しき現実です。
なぜそのような不信感があるのか。このことについては、他寺のことを批評する依然に、私自身のこととして受け止めて改善しなければならないと痛感しました。

和尚の語源は「オッジャー」というサンスクリット語の〝優しく親しみのある先生〟という意味ですが、当寺の界隈では、“一番気安い坊主”として売ってる私ですから、真の和尚と呼んでいただけるように、和尚のあるべき姿に近づけるよう精進を重ねていく所存です。

合掌

第2弾アクティブシニア セミナー!

スマートエイジングでアクティブシニアになろう!と宣うセミナーの第2弾です。
自分で言うのもなんですが、なかなか面白いお話になっています。
「ほんまかいな!?」「へ〜!知らんかったわ」「ひとつ賢なったわ〜!」などなど感性豊かな感想をいただいておりますが、実のところ経済産業省の予測データとして2030年頃の高齢者は、約8割の方々が元気にスマートに歳を重ね快活に暮らしているとのことです。
はて、かく言う私が、後期高齢者になる2043年頃は一体どんな社会になっているのでしょうか…
スマートエイジングどころか、徳を積んでいないので、そもそも生きてるかな?
合掌・御陀仏チーン!

無量寿

「無量寿の中に居る私です。生きて良し、死んで良し。」

無量寿とは「永遠の命」のことを言います。
永遠の命とは、「命のつながり」と考えます。
私たちは、この永遠の命のつながりの中に存在しています。
命とは人間だけではありません。
動物はもちろんですが草や木、土の中にいる微生物も命です。
そのような無数の命のつながりの中で生かされて居るのです。
このような感覚を持つことは、
日々生きることの尊い意味を感じ得ることにつながります。
これを「宗教的発露」と言って、一種の悟りでもあります。

私のように食べることに卑しく、草や木や微生物など好き嫌いなく、
なんでもむしゃむしゃいただくのも一つの悟りでしょうか…
いや、ちゃうやろ…
(゚∀゚)キタコレ