葬送儀礼所感その10

大方の人たちが考える死は、おそらく「死は一巻の終わり」と言うべきだろう。
ただ、この事実をどう受け止めるべきなのか。
その本質について、一体どう考えるべきか。
死は本当に悪いことなのか。
永遠に生きる方が良いのか。
死を恐れるのは適切か。
避けようのない最後が待っていることを知っているのなら、その知識に照らしてどう生きるべきなのか。
〜シェリー・ケーガン/紫田裕之訳(2018)「死とは何か」文教社〜

死は本当に一巻の終わりなのだろうか…
終わりとは何を持って言うのだろうか…
では延々に生きることができたとして、それが私たちが求めていることの本質なのだろうか…
私たちは死の恐怖に打ち勝つことができるとして、それには何が必要なのか…

思索は尽きない

葬送儀礼所感その9

人は死んだらどうなるのか?

この問いを真剣に考え深めた場合、生きるとはどういうことか?私は何者か?を突き詰めなくてはならない。それはどういうことかというと、死んだらどうなるか、という問いは、死んでもなお存在するための〝魂〟はあるのかどうかを理詰めで解答しなくてはならないからだ。

魂は、身体の中に内包されたものであれば、身体が滅すると同時に魂も滅すると考えるべきだろう。故に死後も存在する魂は身体と別に非物質的であらなければならない。それは一体どのようなものなのだろうか。

私の意識は魂として身体の外で存在することができるのだろうか…

一つ言えることは、魂は有ると結論づけるには相当に困難である。しかし魂は無いと、目の前の事象にのみ真実が見出せない程度の思考で納得しているようでは、いずれ訪れるであろう死の恐怖にもがき苦しむことになる。

したがって〝私の魂〟については死の間際まで問い続けなければならないのだ。

認知症予防運動セミナー

今や、介護が必要となる要因の第一は認知症です。
認知症発症の7割近くはアルツハイマー型の認知症で、その原因は「アミロイドβ」というタンパク質の異常の蓄積によるものとされています。
そして、アミロイドβの異常は50歳代から始まっているといわれています。
そのような認知症を予防する4つのポイント、1運動、2栄養、3認知機能、4社会性にあります。
認知症は決して高齢者特有のものではなく、中年期から生活習慣を見直さなければなりません。
今日は、特に「運動」についてクローズアップし、日常の暮らしに少しの変化を加えることで、認知症予防に役立つお話をセミナーでお伝えいたしました。

葬送儀礼所感その8

幸せを突き詰めると人生は〝苦〟に行き着きます。
なぜなら、どんなにしあわせな人生であっても〝死〟で終わるとなると、それは極めて恐ろしく苦しい道のりです。
どのような宗教も〝死〟という〝苦〟の存在が根本にあり、その苦に対して、私たちがどのように考えるのかを問うのが宗教です。

「人はなぜ死ぬのか…」

それは、生きるという苦から解き放たれるためであると考えます。
そして、葬送儀礼において重要なことは、阿弥陀如来の本願の中に、あらゆる時代の人々が等しく摂め取られていることが明らかにされていることを故人とともに聴くことにあります。

ゆっくり

身体の健康はもちろんですが、心の安定にも大きく影響するのが自律神経です。
自律神経には交感神経と副交感神経があり、これらのバランスを整えるのが心身ともに大切です。
ではどのように整えるのでしょうか。
一言でいうと「ゆっくり」です。
何かにつけて、私たちは忙しく暮らしていて、どちらかというと交感神経優位な状態で過ごしています。従って「ゆっくり」を意識的に行えば副交感神経が働き、自律神経のバランスを保つことができます。
忙しく感じている時ほど「ゆっくり」を意識して、自分に言い聞かせましょう。

でも忙しいそうな人を見かけて「ゆっくり」と声をかけても「うるさい!」と言われかねません、特に家庭の奥様や職場の女性スタッフなどに親切心で声をかけても、恐ろしい結果を招くことになりそうです。ご注意を…

参考著書〜小林弘幸(2011)「なぜこれは健康にいいのか?」サンマーク出版〜

葬送儀礼所感その7

当麻寺所蔵「当麻曼荼羅」

浄土三部経の一つ「仏説観無量寿経」の諸説を描いたとされる当麻曼荼羅は、中央に阿弥陀仏が鎮座し、左側はお経の序章〝王舎城の悲劇〟を表現し、右側は、極楽浄土に往生を遂げる十三観想法、下縁には九品往生が図示されています。
老病死の恐怖を極楽の存在を信じることで、救われようとした昔の人々。
今の時代に、極楽浄土が本当にあると信じ切ることができる人は少ないといえますが、昔も今も死の恐怖を克服する術はありません。

葬送儀礼所感その6

「人の命は地球より重い」
この有名な言葉は、ハイジャック事件の人質開放にあたり、当時の首相福田赳夫氏が呟かれたと伝わっています。
しかし、そもそも人の命に重みはあるのでしょうか。
人の命は地球より重い、と聞くとどこか聞きごごちが良くありがたく感じますが、命というのは、人だけではなくこの世に存在する全てに命があり、その命は遥か昔から網の目のように繋がっており、また未来に向けても命は繋がっているのです。

命というのは、私一人のものではありません。

命は永遠であり無限であります。

死というのは、永遠の命に戻ることです。

決して恐ろしいことではありません。

布施の心

「七種施ありとも。財を損ぜずして大果報を得ん」
……雑宝蔵経

お布施といえば、お坊さんに対する謝礼といった意味で捉えられていますが、本来は、他人に施すことで徳を積み自らの人柄を育てることにあります。
施しといってもお金だけではありません。

「無財の七施」
一・眼施(げんせ)優しい思いやりのこもった眼で見る
二・和顔悦色施(わげんえつじきせ)穏やかで気品に満ちた表情を心がける
三・言辞施(げんじせ)優しく美しく正直な言葉を話す
四・身施(しんせ)人が嫌がることでも身をもって尽くす
五・心施(しんせ)他人に対し常に礼儀を尽くす
六・床座施(しょうざせ)他人のための席・居場所を居心地よく整える
七・房舎施(ぼうしゃせ)他人のための家や部屋を最適な環境で保つ

このように、布施とは他人に対する慈愛に満ちた自分の態度を表すことであって、そのような自分の人柄によって、世間様から幸せを恵んでいただくための行いであります。
現代社会の生きつらい中で、今一度考えさせられる教えです。

葬送儀礼所感その5

南無阿弥陀仏をとなえれば 
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
喜びまもりたもうなり…和讃

阿弥陀とは、“計り知れない永遠の”と捉えて仏は“命”と見ます。
阿弥陀さまとは、これつまり“永遠の命”と解釈します。
永遠の命とは、命のつながりのことで、私たちの命は遥か昔から脈々と繋がってきた命であります。
地球が誕生し海ができ、微生物が生まれてから現在に至るまで、生きとし生けるもの全ての命は果たしてどれくらいあったでしょうか。
決して数えることはできない無数の命、この総称が“阿弥陀仏”と私は考えています。