餅つき!

西栄寺大阪本坊の餅つき大会です!
介護部のスタッフ有志も集結して、お寺の本堂に供える鏡餅などを懸命に作ってくださいました。
仏教には精進ということばがありますが、〝精〟という漢字は〝米が青い〟と書きます。これは餅つきのことという説があって、米が青くなるまで、つまり餅になるまで突き続けなくてはならない、休んではならないという意味になります。
精進と聞くと、精進料理のイメージのせいか、どこか落ち着いた静寂の感覚がありますが、実は、がむしゃらに突き進むのが精進というべきです。

必死の形相で餅をつく吉田

怒りのコントロールその2

誰でも、怒りを自分に吸収し、前向きなエネルギーに変えて成果を出すことがあります。仮にも、怒りの原因を他者や他事に差し向けたとしても、そのエネルギーを無駄に怒ることのみで消費せず、目標を設定し行動することで有益な結果を得ることができれば、怒りを全否定することもありません。
しかし、有益な結果が自己満足のための帰結とするなら、それは本質的な成果にはならないと考えるべきです。
つまり本質的な成果とは、怒りの原因とされた他者や他事とも有益な結果を共有することであって、そこまで怒りのプロセスを経ることができてこそ〝怒りのコントロール〟といえるのではないでしょうか。

西宮坊須弥壇の装飾

怒りのコントロールその1

私たちは、1日の中で何回くらい怒りの感情が湧き起こっているのでしょうか。
小さなイライラから声に出すほどの怒りまで、何十回と怒っているのではないでしょうか。
かく言う私も、朝起きて夜寝るまでの間に何度も怒りの感情が湧き上がります。
私たちの怒りは、大抵は人間関係の中で生じる些細な軋轢が原因となります。他者から理不尽な言葉や態度を投げかけられたことが原因で怒りの感情が沸き起こることが多々あります。そして、怒りの原因を他者に差し向けては怒りを当然の権利のように思い込みます。
しかし、怒りというのは自分の感情に他なりません。怒りの原因に原因があるのではなく、怒りとは単に、「怒っているのは自分」であり「自分だけのもの」なのであります。
怒りの感情の多くは、心身を無駄に疲弊させます。
できるだけ「怒りの感情をコントロール」できるように努めたいものです。

西宮坊の石段回廊に座すお釈迦様

しまの日

今年さいごの〝しまの日〟だ。
来年は10年目になる。
でも、想いでは色あせていない。
抱っこしている感覚も残っている。
匂いも残っている。
声も残っている。
手のひらの形もはっきりと覚えている。
今も近くにしまがいると…感じる。

お布施40万から80万!?

NHK朝の番組で葬儀に関する特集があり、
葬儀の際お寺に収めるお布施が
全国平均40万から80万だと示されたそうだ。
だとすると当寺は全国平均から
だいぶだいぶ下の方に推移することになる。
実は、私のところには、他寺のお布施が高くて
支払うことができず困っている、との相談が多くある。
私自身の金銭感覚からしても40万といえば大金だ。
大切な家族が亡くなったとはいえ、
それは苦しい出費だと私は思う。
お布施は、収める側が主体でなければならない大原則がある、
「40万を収めたい」と思う人は、
それは本当に素晴らしいことである。
でも「10万を収める」という人も、
同じく素晴らしいことなのだ。
それがお布施というものである。

パンフレット完成!

かねてより作成していました〝西宮坊パンフレット〟がいよいよ完成いたしました!
今回のパンフレットは、新進気鋭のイラストレーター『黒犬洋平』さんにデザインを依頼し、西栄寺西宮坊を、できるだけ多くの方々に親しみをもっていただきたく可愛らしいイラストを多用して作成していただきました。
〝温故知新〟というべく、お寺は、宗派の教義や伝統は大切にまもりつつ、新しいことには積極的に挑戦しなければ時事の変化の中で埋没してしまうかもしれません。
これからも西栄寺西宮坊は、新しいことに果敢に挑戦して参る所存です。

今年の総括

今年は〝令和元年〟の暁と伴って、
私にとっては〝50歳〟になったことと、
〝西栄寺入寺20年〟さらに
〝お寺の介護はいにこぽん〟を起こして5年
という三つの大きな節目の年であった。

さて、人として50年、僧侶として20年、
お寺の介護福祉部長として5年の私は、
どれほどの人間なのだろうか。

現在は、責任ある立場に就き、職員を束ね、
私の意思が事業部の運営に大きく影響する。
この状況は相応の努力があってのことと、
一応は自己評価できる。

けれど、今の状況をよくよく考え巡らしてみると、
このような結果を作り出したのは、
周りの人たちや環境が素晴らしい故だと気づかされる。

これからは、周りの人たちや今の環境に、
心底感謝できるかどうかが、私の最大の課題である。

私の人生、だいぶ時間が掛かったが、
生きている意味が見つかったような気がする。