葬送儀礼所感その19

葬儀の際、祭壇にたくさんの色花で飾ることを「供華」といいます。
華は人生に例えると「完成」を意味して、華を供えることは人生の完成を表すことです。さらに私たちは、理屈ではなく無条件で華を好み、華に多くの意味を持たせます。
「仏説阿弥陀経」には、極楽浄土では「大きな蓮の花から、青い光や黄色い光、赤い光や白い光が美しく光り、とても芳しい香りを放っている」と説かれています。
蓮の花は、泥の中にあって美しく咲く花として、「この世の五濁悪世でも蓮のように美しく生きなさい」という仏さまからのメッセージを持っています。しかし、時がたてば美しい蓮も朽ち果ててしまいますが、花の実の中では、また次に咲くための種が内包されています。そのようにして花のいのちは永遠に繋がっていきます。
この、美しいいのちのつながりを〝あみだ〟と称え奉るのが「供華」の本来であります。

葬送儀礼所感その18

今日ともしれず、明日ともしれず、ひとの命のはかなきこと夢幻の如く、
明日には紅顔ありてゆうべには白骨となれる身なり。
後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみ参らせて
念仏申すべきものなり。
(白骨のご文章)
わたしたちは、いつ死ぬかなどと考えてみても、今日かもしれないし、明日かもしれないと、極めて残酷で無情な事象の中で生きています。
しかし、今日かな?明日かな?などと思いつめて生きるなどありえません。
〝自分の死〟などは、先延ばしに延ばしてぼんやりさせていないと、とても生きてはいけません。
でも、その厳しい現実を違う形で見せつけられるのが〝家族の死〟です。
家族の死は、否応もなく死のおそろしさに引き込まれます。
しかし、そういった死の恐怖を緩和するのが宗教であり、宗教に基づいた葬送儀礼であります。
今一度、形骸化してしまった葬送儀礼のあり方を考えなければなりません。

葬送儀礼所感その17

アミダ仏は太陽をシンボライズした絶対仏であります。
経典ではアミダ仏のほか、〝無量寿仏〟や〝無量光仏〟の名が登場します。
アミダはサンスクリット原語のアミターの音写で「無量」の意味です。
そこに、アーユス「寿命」や、アーバー「光」を加えれば、
無量寿や無量光になるというわけです。
アミダ仏を一言でいうならば「永遠の命」ということになります。
太陽のような超越的な存在が、西の彼方に沈んでいく様をみて、
その先にある仏の世界を見出したのが「浄土信仰」の原点です。
しかし、西の彼方にある極楽浄土は、外の世界ではなく、
自分の内にあるとも考えます。自分の考え方や行いを正し、
至心にアミダ仏の名を呼び続ければ、そのうち真理を得て、
生きながらにして極楽浄土に達するのです。
極楽浄土は〝場所〟ではなく〝状態〟と考えれば、
現実味をもって捉えることができるかもしれません。

葬送儀礼所感その16

〝平生業成〟といえば親鸞聖人がお説きになった浄土真宗の大看板です。
成仏について、おそらく一般的に理解されているとすれば、人は死んでから仏さまに成ることを指しあてていますが〝平生業成は〟生きながらにして往生成仏が成就することです。
成仏とは「究極の安らぎを得る」ことですが、生きながらにして究極の安らぎを得ることは至難の中の難大です。
まずは、生きながらにして「究極のやすらぎを得る」ための教えがあることに気づかされなければ平生業成の域には向かえません。
仏教はそのための手段を多く提供しています。亡くなった人を供養するのも、そのうちのひとつです。
供養とは、私の心を養って育てるための大切な方法です。