冬の味覚

11月もいよいよ終わりになりますが、この時期やはり食べ物が美味しいですね。
特に鍋やおでんは心も体もほっこりと幸せな気分になります。
実は、鍋やおでんはタンパク質やビタミン類がたっぷりと採れてヘルシーな食事です。ただ、あまりの美味しさについつい食べ過ぎてしまうのが難点です。

ベジタブルファーストという考え方がアメリカからやってきましたが、鍋やおでんも、野菜ものから先に食べて、胃腸に食物繊維を入れ、それからお肉などの動物性タンパク質を採れば、食べる量が抑えれるのと、腸の働きと吸収も程よいものになると言われています。
お鍋の〆にうどんや雑炊が、これまたたまらん美味しさですが、できれば、これらの炭水化物は少なく目にして、 腹八分目でお箸を置いて、余韻で満腹になるのがよろしいかと思います。

食前の言葉
御仏と皆様のおかげによりこのご馳走に恵まれました。深きご恩を喜びありがたくいただきます。合掌

深き秋

月日の流れは早いものです。歳を重ねるほど痛感します。
平家物語には「盛者必衰」とありますが、それもまた、秋が紅葉するように美しいことなのかもしれません。

西国二九番・青葉山松岡寺にはt次のような戒めが言い伝わっています。
「老いの戒め」
一、紅葉は春の花よりも更に趣あり、若きより老いて後人間は円熟す、晩成すべし
二、昔日を自慢すべからず、人の価値は今日に定まる、励むべし
三、余命少なき一日は、若き日の十倍の価あり、慎むべし
四、世間に陰徳の種子まけば、家門に陽報の花咲かん、努むべし
五、いまだ死を免れたるものはあらず、迎えのある時は、安んじて旅立つべし

毎日を丁寧に生きて、自然の摂理を素直に受け入れて委ねていくことが肝要かと
感じています。

秋深まる西宮坊の階段

七五三

子供たちの成長は早いもので、幼児の成長を祝う我が家の神事は、三女の七歳参りで満願となります。
「えっ!お坊さんが神事!?」と思われるのもごもっともですが、子供たちには色々と経験をさせてやりたいと思う親心であり、その上で、もう少し大人になってから、自分の考えで、仏教や宗教と向き合って欲しいと考えています。私自身がそうであったように。
『神社は七五三で通い、 青春の時代には教会で賛美歌を歌い、大人になってようやくお寺で人生を思索する。』という言葉がありますが、私たち日本人は、自然に対する感覚が特に洗練されているように思います。
その感覚が神や仏の習合として繋がり、さらに宗教の教義に縛られることのない
その地域に根ざした民間信仰となって生活に密着しています。よくよく考えれば、日本人は、無宗教でも無信心でもなく敬虔な民間信仰の信者なのですね。

次女と三女がお参り

雨の西宮坊

西宮の念仏道場は、雨が降れば植物が生き生きとします。
私たち人間は雨を少々鬱陶しく感じますが、本来雨は自然からの恩恵なんですね。その様子が見てとれる念仏道場の雨が私は大好きです。

「草木国土悉皆成仏」“そうもくこくどしっかいじょうぶつ”
草や木、土のなかの微生物にいたるまで全ての生き物には“仏”が宿っています。
そして、そのような有難き植物を摂取して生きているのが私たち人間です。
生かされていることの感謝を忘れてはなりません。
合掌

しまの日

小学1年生のしま

19日は“しま”の日です。

私が現在のように僧侶でありながら、介護福祉士や臨床宗教師として、活動している原点には“しま”の存在があるからです。“しま”は多くの支援をいただきながら命を輝かすことができました。そのご恩に報いるために、同じ社会福祉の中で支援活動を実践することが、一つの供養のあり方だと考えています。

介護の基本セミナー

介護の基本は自立支援です。
何でもかんでもお手伝いするヘルパーさんよりも、高齢者が自分でできるように専門家の知識を活かして支えるヘルパーが優秀といえます。
家族が介護をする場合も、もどかしさを感じたとしても、高齢者自身の暮らしを見守りつつ、高齢者自身ができないところにのみ手を差し伸べることが重要で、結果的この姿勢が介護の重度化を防ぐことになります。

今日はそのような介護のあれこれを、お寺の介護とお坊さんヘルパーの第一人者、唯一無二の存在、そう!私!吉田敬一がお伝えいたしました。

葬送儀礼

~ 亡き人に教えられ育てられ ~

生きとし生けるもの全ての人に必ず訪れるこの世とのお別れ。未だかつて、この事実から逃れたものはだれ一人としていません。なぜ生きるものは全て死を迎えるのでしょうか。

それは、 死があるからこそ命を輝かすことができる。
限りある命であるからこそ尊いのです。
かけがえのない命を日々丁寧に生きたいものです。

本日のお葬儀をお勤めして感じたこと。

南無阿弥陀仏…合掌

倫理委員会

大阪市内の中核病院の「拡大倫理委員会」に出席しました。
病院では、治療方針や終末期をめぐる対応のたびに倫理委員会を開催し、個別の案件を審議します。
今回私は、年に数回開催される拡大委員会に宗教者として召集されました。病院で用いられるのは「生命倫理」であり、ここには正解がありません。正解がないからこそ、多くの専門家が多義的に議論することが重要です。医療科学の目覚ましい発展とともに生命倫理のあり方も変化します。その中において普遍的なものをしっかりと確保するのが宗教者としての役割かと考えています。

普遍的なものというのは「命」とは唯一無二の存在であると同時に、過去から現在そして未来と永遠に繋がっているという尊さです。人間の能力によって命の尊さをも管理しようとすべきではありません。管理などできないからこそ尊いのです。

神道の世界に「円満虚無霊性」という考えがあります。神とは何か?霊性とは何か?この答えが「円満虚無霊性」です。例えば、円満は100%と捉え、虚無は0%と捉えその両方100と0が同時に存在する。完璧に在るものと全くの無、これら全てを包括する存在が円満虚無霊性であります。

さらにもっとわかりやすく説明しますと、私の奥様への愛情は円満。奥様の私への愛情は虚無。なのに一緒に暮らしているのはなぜか?
それは大いなる存在のお導きが在るからなのです!!キタ━(゚∀゚)━!
っていうてる場合やあれへんし…