薬師寺

奈良・薬師寺
利用者さんの参拝に同行
外国の観光客や修学旅行生にのみ込まれながらも
薬師如来さまに ひたすら合掌を向ける利用者さん

『信心よろこぶ人はみな、如来とひとしと解きたもう』

焼き鳥

2016ー3/14
近所の焼き鳥屋さんで、一人ほっこりしているところに
家内よりのIPADのフェイスタイム通知が鳴った
携帯電話を忘れてIPADしか持っていない私は
緊急事態かと思い、慌てて通話

家内:「パソコンのエクセルがおかしいねん」
私の心:なんでや!めちゃ音量デカイやないか!
私 :「今、焼き鳥におんねん」
家内:「お弁当の注文書作んのにいんねん」
私 :「今、焼き鳥におんねんわかるやろ」
私の心:音小ちゃくするんどれや!?
家内:「声のトーンがちゃうな」
私 :「周りの人に聞こえてるから、もう切るで」
家内:「いつもと声のトーンちゃうやん! いつもより優しく喋ってるやん!!
いつもと全然ちゃうやん、 なんやの!?」
私 :「……」
私・・通話を切る

その後焼き鳥屋の店内に捲き起こる
私への憐れみと同情の空気
ここで逃げるわけにもいかない
注文したメニューはまだ来ていない
それでいて
大人の男として動じずに振る舞い
また、そんな家内を許容し
そんな家内を微笑ましいとさえ想う姿を演じないと…

…………恐るべし家内

他力信心

2015ー11/3
果たして、心から仏を信じることができるだろうか…
信じるという行為を徹底的に考察すればするほど、利己的な己が透けて見えてくる。
そもそも、信じ切れば「信じる」という言葉は要らない。
おそらく自分にはそのような信じ切る能力は無いだろう。
しかし、阿弥陀様はそのような私達のことをよく存じておられる。
なので、阿弥陀様の方から私達に信じる力を与えてくださる。
つまりこれが『他力信心』である。
信心とは起こすのではなく、与えられるものなのだ。
そうだ!!私も、娘たちに、父親を信じることのできる力を与えよう!!
結果、全拒否でした(-ノ-)/Ωチーン

南無阿弥陀佛

大事なお客様

2015ー10/27
昨日から明日にかけて、お寺で特別なお客様をご接待している。
3日間、お寺の細部にわたる様々なことをご案内しなければならない。
お寺という宗教法人には、国から定められた運営の規定があり、その規定に則した運営がなされているか、また、規定に則した申告がなされているかどうかを示す必要がある。
そのため、時に、お客様の鋭く厳しい質問に対し、動じることなく的確に、答えなくてはならない。
時に、解釈の違いで議論になることもある。自分の考えに引き込む時は、理論と整合性はもちろん、言葉の使い方、立ち位置や目線にも気を配りつつ、その考えがいかに信仰に基づいたものなのかを力説する。
と、かっこよくのたまいつつも、目を覆いたくなるような間違いや、弁明しようの無い抜け、また、こちらの目が点になる証拠の提示、さらには双方が閉口してしまうような爆弾事案の発見!
お寺から、この重大な役を命ぜられたことは光栄だが、しょせんワタクシごときでは、四名ものお客様にご満足いただけるようなお接待はできぬ。
よし!こうなったら、明日の最終日は、右の袖には勝尾寺の勝ちだるま、左の袖には明治神宮の成就おまもり、帯の中には唐招提寺の健康おまもりをしのばせて、
ご利益作戦でいくしかないな.…

無量寿仏

2015ー10/20
阿弥陀さまは本当に存在するのか…
阿弥陀仏のことを『無量寿仏』と称することがあるが、無量寿とは、永遠の命。
そして『無量寿光』とは、永遠の光。
つまり阿弥陀仏とは、永遠の命から放たれる慈愛に満ちた光であり、真理そのものである。
ええこと言うなああ〜

南無阿弥陀

夕日の向こうに西方浄土

お盆

2015ー8/13
今夜は西宮坊のお堂で就寝。
亡くなった方が夢に出るという話はよく聞くが、亡き長女は一度もワテの夢に出てこない。
もしも、お盆でこの世に一時帰省しているなら、 夢でもお化けでもなんでもいいから、会いたいな。

灼熱

2015ー8/9
灼熱のお盆参り。
ワテはもう日干し化しています ( ̄_ ̄|||) どよ~ん
けれど、こんなワテを、ご家族そろって待っていて下さる方々がいるのです。
供養とは、わたしたちの感謝の気持ちを、み仏さまにお供えし、わたしたちにもともと備わっているほとけ心を養うこと。
つまり、み仏さまよりのおめぐみを実感することであります。
みどり豊かな夏の盛りに、み仏さまとのつながりを、あらためて感じたいものです。
南無阿弥陀

初めての大腸検査その2

2014ー10/15
本日無事に大腸内視鏡検査を終えました。
下剤を1.5リットル飲んだ後、2時間で23回トイレに座し、タイミングを見計らい、おしりに渾身の力を注ぎながら病院へ駆け込みました。
実際の内視鏡に関しては、鎮静剤のおかげで、痛みも無く、また苦しい感覚も無く、そして支給された検査用の小さな穴あきパンツと毛布の効果でそんなに恥ずかしくも無く、終えることがでけました。
もしかして、ドクターは凄腕なんではないだろうかと思われます。
そのようなドクターと〝しり会えて〟よかった。

ただ、一つ不可解なことは、施術中あろうことか「私は坊さんでどうのこうの、そして最近お坊さんヘルパーでどうのこうの、実は臨床宗教師研修という講座を受講してどうのこうの、全国でお寺は7万5千もあってコンビにより多いのでどうのこうの…..」と延々話してしまったのです。
ドクターも「歯医者さんは約9万件ありますから大丈夫ですよ」と仰っていましたが、後から考えたら一体何の会話や!?
施術後は、仮眠室のようなところで30分ほど深い眠りにつきましたが、その後、
不思議な感覚になってふと理解できました。
鎮静剤の影響で、酔っぱらったような感じになって、しゃべりが止まらなくなってしまったのだろうと思います。
看護師さんは、「少しボーっとしますよ」と言ってましたが、ボーっとどころかベロベロになってしまったようです。そのおかげで、痛みも無く苦しさも無く、はずかしくもなかったのです。
なるほどなるほど、おかげで納得がいきました。
ありがとう御座います。

次女

2014ー7/3
今日は次女の誕生日だった。
一通りのお祝いを終えた頃に、家内がゴミ箱から、無造作に捨てられていた漢字プリントを見つけた。
次女は漢字が苦手で、このプリントも私達に見られる前に抹殺したつもりだろう。
しかし、怒る気も吹き飛ぶシュールな漢字間違いがあった。
「走る」と「歩く」が合体した漢字。
これはスピード的に、走ると歩くの間を表現しているのかな?

走ると歩くの間

テレビの取材

先日、テレビ局の取材依頼が2件続いた。
いずれも、私が東北大の臨床宗教師の第一期生で、現在は緩和ケア病院で傾聴活動をしていることを取り上げてのことだ。
テレビに取り上げて頂くのは理屈抜きに嬉しいことだが、私は意を決してそのご依頼を断った。
私ごときが、テレビに映ることなどもう二度と無いだろうけど、今回は涙をのんで断った。
その理由は、今日の『聞き屋』活動でも明らかだった。詳しく記述することはできないが、今日も患者様から『いのち』について、かなり深いところまでお話をお聴きすることが許された。
その患者様と、そのところまで話を深めるには、 私の方もお話をお聴きする姿勢を保つだけで、汗がしたたり落ちる程の集中力が必要だ。
けれど、そういう場面にカメラが入るとなると、患者さまのお話やお気持ちに著しく邪魔になるのは目に見えているし、私自身も相当意識をしてしまうのも明白だ。
それでは、患者様の大事な時間を私の都合で奪ってしまうことと同義である。
緩和ケアホスピスに来た患者様方々は、残されたいのちの時間に重大な決断を下された方々であり、私たちの想像を絶する覚悟を決めて来た方々であり、私の取材などどうでも良い。
それでも取材が許されるとするなら、患者さまが主になり、いのちに向き合い、人生を見つめ直す寡黙なお姿をとらえるべきだ。

今日19日は、長女の月命日だが、去年の5月19日に緩和ケアホスピスに問い合わせて6月から活動を開始した。
もう少しで一年をむかえようとしている。